赤嶺栄亮(1925-1999)

武道家(空手・古武道)

1925年5月1日豊見城村字嘉数に、四男一女の長男として出生。小学校3年生の頃に父徳助が病気で死去、以後長兄として家計を支えた。

1944年19歳の時、比嘉静子と結婚。ほどなく徴兵され台湾に出兵。1945年台湾で終戦を迎え除隊。1946年に沖縄に帰る。

出身地豊見城村の嘉数部落では、昔から棒術が盛んで山根流創始者知念真三良(通称‐ヤマンニーヌ・ウスメー)の直弟子たち(比嘉成一郎、比嘉来助、赤嶺要平、比嘉仁三郎など)により、嘉数という集落で伝承されている棒術(佐久川の棍、周氏の棍、米川の棍、白樽の棍)が伝えられていた。稽古は非常に厳しく、真剣勝負そのもので、常に生傷が絶えなかった。栄亮は24歳の頃から各名手に師事し、嘉数棒を修得していた。

その嘉数部落には、真三良が教えた棒術が全部保存されていたと言われている。指導方法はあまりにも厳しく、命を落としかねないと恐れられていたほどだった。

赤嶺は琉球伝統古武道の達人から直接指導を受けた数少ない人物である。

31歳になった1956年、赤嶺は志新たに琉球古武道の大家平信賢の門を叩き、古来より伝われ琉球古武道や空手を伝授され、師範免状を授与される。

1970年、平亡き後、「琉球古武道保存振興会」の2代目会長に就任する。

1971年、豊見城村根差部に道場を開設し、組織的活動を通して本格的に弟子の育成を開始した。

「基本に忠実」「実戦即応」というのが赤嶺の指導方針であった。「基本の延長が型」の考えから、毎日基本稽古の繰り返しで、その指導は非常に厳しく、弟子たちには¨良くできた¨とか¨これでぃい¨とは決して言わなかったという。

実戦に使える武術として、棒や各武具の組手にいち早く取り組み、演武大会や選手権大会を開催し、琉球古武道の普及と振興に積極的に取り組んだ。

赤嶺が座右の銘としていた「世間の手や上」(しきんぬ・てぃやうい)という言葉がある。世のなかには必ず自分よりも上手な人がいる。だからいつでも初心を忘れることなく驕ることなく、謙虚に道を求めよ、という教えであった。

彼は数多くの技も伝えたが、最も弟子たちに影響を与えたのはその精神的な生き方であった。彼の弟子たちは、現在国内外で数多く活躍しており、その志はしっかりと受け継がれている。

1970年に「第1回世界空手道選手権大会」特別個人演武参加、1972年に「沖縄復帰記念行事古武道大会」特別演武参加、1995年に「沖縄空手・古武道連盟」より範士十段位を授与、1997年に「第1回世界空手道大会」において感謝状を授与されるなど、数々の功績がある。さらに、沖縄県空手道連合会常任理事をはじめ、各団体の役員を歴任し、古武道の普及・発展に項献してきた。1999年、赤嶺は志半ばで病に倒れ、73歳の生涯を閉じた。